東成区東小橋地車

 
大屋根妻正面車板:宝珠を掴む清龍  柱巻:昇り竜 ↓
小屋根懸魚:牛若丸 弁慶五条大橋の出会い
 白い薄衣を被った牛若が笛を吹きすさびつつ五条大橋にさしかかると、かねて千振の太刀を奪う願いを立てていた荒法師武蔵坊弁慶が、千振目の太刀にと狙いを定め牛若丸に戦を挑むが、身軽な牛若丸に翻弄されてついに弁慶は屈服し、主従の契りを結ぶ事となった。 ↓
小屋根妻正面車板:牡丹に唐獅子
百獣の王である獅子と百花の王である牡丹で、猛獣と草花の王を並べた図柄である。↓
車向かって右平脇障子:勧進帳:安宅の関
兄の源頼朝に謀反を疑われて追われる義経が奥州平泉へと落ちのびる途中の文治3年(1187 年)、山伏姿で安宅の新関にさしかかる。
関を越えようとしたその時に、関守富樫泰家に見とがめられ、詮議の問答が始まる。
弁慶は白紙の勧進帳を読み上げて、強力に身をやつした義経をかばう。
しかし顔が似ているという関守の前で義経に似た貴様が憎しと主人を打ちすえる。
その忠義の心に感じた富樫は義経と知りながらも一行を解放し、関を通してしまう。↓
地車向かって左平脇障子:新田義貞 宝刀流し
 元弘3(1333)年 新田義貞は幕府軍を攻略するため領国上野から鎌倉へむかった。
鎌倉在住が長かった義貞は、干潮を利用して稲村ヶ崎の海岸線から攻めることにした。
義貞は馬から降り兜を脱いで海上を拝み後醍醐天皇から下賜された黄金の太刀を海中に投じて龍神に祈り、引き潮に乗じて鎌倉に攻め入った。↓
地車妻正面見送り三枚板:畠山重忠と巴御前の血戦
宇治川の戦いで畠山重忠は三条河原で義仲の愛妾の女武者・巴御前と一騎討ちを演じ、怪力で巴の鎧の袖を引きちぎり、巴は敵わないと見て逃げ出した。↓
地車右平見送り三枚板:八幡太郎義家 安部貞任を追う
平安中期、東北の魁・安倍貞任は、前九年の役で朝廷軍・八幡太郎義家と永承6年から12年にわたり争った。
衣川の柵で貞任の軍勢は敗れたが、貞任は北へ北へと逃れたという伝説がある。
追う義家に対し、貞任は小川原湖を通り、ついには北の果て「佐井」に至る。
義家の軍勢に追い攻められた貞任は、血散りが浜で体中に矢を受けるが、引き抜いては海に捨てながら逃げ続け、ついには鬼となる。
そして鬼となった貞任は、もう死ぬこともなく、いつまでも北を守る鬼神となったのである。↓
地車左平見送り三枚板:宇治川の先陣争い
名馬麿墨(するすみ)にまたがった梶原源太景季と主君の源頼朝から愛馬生喰(いけづき)を拝領した佐々木四郎高綱が先陣を争います。
出遅れた高綱はとっさに「馬の腹帯がゆるんでおるぞ」と梶原に声をかけました。
梶原が腹帯を確認している隙をみて、佐々木が宇治川を渡り切り、敵軍へ先陣を果たしたのである。↓
地車左右角障子:敦盛呼び戻す熊谷次郎直実
寿永3年(1184年)2月7日、源義経軍は一ノ谷へ向け出陣、
平清盛亡き後劣勢であった平氏軍は一旦軍を立て直し摂津福原にて陣を構えます。
そこへ源範頼・義経軍が急襲し、海上へと敗走させました
沖の船へ逃れようとする平氏の武者(平敦盛)を見つけて直実は扇を上げて呼び止めます。
直実は「それなるは名のある御大将とお見受けする、敵に後ろを見せるは卑怯でありましょう返したまえ」と大音声をあげた。
武者はこれに応じて、陸へ引きかえして直実と組むが、直実にはとても敵わず、組み伏せられます。
直実は押さえて首を取ろうと顔を見ると我が子と同じ16、17歳の年頃の若武者の姿がありました
直実は憐れに思い逃そうとするが、他の源氏の武者が迫っており、とうてい逃れることはできまいと泣く泣く敦盛を討ち取りました
少年の腰には青葉の笛があり平経盛の子敦盛だと知る。
その後直実は、敦盛を討ったことに対する慙愧の念と世の無常を感じ、法然上人の下で出家し蓮生坊となりて、敦盛の菩提を弔い続けたという。↓
地車妻正面縁葛:仁田四郎忠常猪退治
「富士の巻狩り」のさなか、一匹の暴れ猪(いのしし)が頼朝の陣屋に突っ込むという事件が起こった。
猪のあまりの暴れぶりに近習はたじろぐばかりで、誰一人手を出せない。
そのとき、豪傑仁田四郎忠常(にたんのしろう ただつね)が疾風のように現れて、猪の背にひらりと飛び乗った。尻尾をつかんで手綱に構え、腰の短刀を猪の喉元に突き立てて見事にしとめてみせたのである。
忠常が献上した猪を見て、頼朝は「富士の巻狩り一番の獲物である」と大変喜んだ。↓
地車向かって右平縁葛:曽我兄弟祐経陣屋討ち入り
富士の巻狩に工藤祐経も参加していた。
夜更けになって、雷鳴をともなう豪雨になり、この激しい雷雨をついて祐経の陣屋にせまる2つの影がありました。
これが祐経をねらう曽我兄弟でした。
兄弟はたやすく祐経の寝所に潜入することができました。
祐経は友人と酒盛りの果て、熟睡におちいったばかりの時でした。
兄弟は祐経の枕をけって「祐経どの父の仇、お覚悟!」とさけびながら祐経の首を斬り落としたのでした↓
 
地車向かって左平縁葛:由比ヶ浜の場
曽我兄弟一万が九つ、箱王が七つになった年、工藤祐経が頼朝に伊東祐親の孫である一万と箱王の存在を告げ口する。
幼い子供だが後顧の憂いを無くすため、死罪が申し渡される。
曽我太郎はやむなく二人を引き渡す。
由比ガ浜に引き出された一万と箱王だったが、畠山重忠(はたけやましげただ)の諫言で頼朝は考えを改め、間一髪で一万と箱王は助命された。↓
比売許曽神社東小橋地車見送り縁葛:富士の巻狩
建久4年(1193年)5月に源頼朝が多くの御家人を集め、富士の裾野付近を中心として行った壮大な巻狩のことである。 ↓
地車妻正面土呂幕:加藤清正の虎退治
文永の役で清正の軍勢は、朝鮮の大きな山の麓ふもとに陣営を構えていた。
たび重なる襲撃に清正は激怒し、わしが自ら、この虎を撃ち殺してくれよう」と言い放つ。
清正に向かって口を開いて牙をむき、飛びかからんとする虎の喉に槍を突き込んで殺害したという。↓
車向かって右平:秀吉本陣佐久間玄蕃盛政乱入す
明智光秀の謀叛により織田信長が京の本能寺に討たれ風雲急を告げる中、秀吉は信長の弔い合戦として中国高松より兵を大返し、光秀と一戦、山崎の合戦に勝利する。
天正十一年(一五八三)四月、織田信長の後継を争う羽柴秀吉と柴田勝家の決戦が北近江賤ヶ岳付近で対陣する。
この合戦の中、柴田勢の猛将佐久間玄蕃盛政は劣勢を盛り返すべく只一騎、鉄の棍棒を真向い振り上げて大声を上げるや秀吉本陣さして乗り込んだ。
その間、僅かばかりとなったその時、秀吉の眼光鋭く光「尾籠なり下郎め!」と玄蕃の頭を貫いた。
鬼の玄蕃も思わず三丈ばかり後ずさり、馬も身振いして進まず退去した。
そこへ秀吉の軍勢が帰り来たので秀吉を討ち損じた盛政は無念ながらに引き揚げるのである。↓
地車向かって左平:四王天但馬守大勇馬を放る
天正10年(1582)6月、本能寺で織田信長が明智光秀に討たれたことを知った羽柴秀吉は、後に「中国大返し」と呼ばれる強行軍で兵を返しました。
俊馬に乗った大将の秀吉は単騎となってしまい、尼崎の武庫川あたりで明智方の四王天但馬守の待ち伏せにあいます。
追われた秀吉は田の小道に逃げ込み馬を下り、馬の尻を切りつけると驚いた馬は四王天めがけて突進する。
怪力の四王天は馬を担ぎ上げて田に投げ込みんだ。
そして秀吉の後を追が、秀吉は栖賢寺へと逃げ込んだ。↓
地車妻正面見送り土呂幕:薄田隼人正兼相の勇戦
翌慶長20年(1615年)に発生した大坂夏の陣で兼相は、誉田八幡宮付近の誉田林に陣を構えた。
幕府軍の水野勝成、伊達政宗、本多忠政といった名だたる大名の大軍を相手に、自ら太刀を振るい乱戦の中で自ら何人もの敵兵を倒したが、ついに力尽きて戦死する。↓