大鳥新調地車入魂式

平成二十七年八月三十日
堺市西区大鳥新調地車入魂式お披露目曳行の風景を浩一が撮影しました。
↓大屋根正面枡合:粟津合戦 巴御前の勇姿
 木曽義仲の愛妾巴御前は色が白く容顔美麗でありながら、一騎当千のつわものであった。
粟津合戦のさなか、最期の一戦に臨んだ義仲に女であると巴は落ちて行けと命じられる。
巴は最後の奉仕にと、そこへ現れた御田八郎師重と組、その首を馬の鞍の前輪に押し付けねじ切り戦場をあとにして木曽へ向かう。
 
↓大屋根左平枡合:鶴ケ岡八幡宮放生会鶴逃がしの場
源頼朝は鎌倉幕府を開くに当り、源氏の氏神鶴ケ岡八幡宮の放生会に征夷大将軍として千羽の鶴を放った。
 
↓大屋根右平枡合:堀川夜討ち
 壇ノ浦の戦が終り、凱旋した義経を英雄として迎える都の歓迎ぶりとはうらはらに、頼朝と義経の間は、いっそう険悪の度合いを増していた。
文治元年(1185)土佐坊昌俊は頼朝から義経追討の命を受け、京都六条堀川の義経の館に夜討ちをかける。
防戦する義経方の弁慶は襲いかかる土佐坊の臣下、姉輪平次を鉄の棒で打ち砕き、敵勢を撃退する。
 
↓小屋根左平枡合:新田義貞 宝刀流し
 元弘3(1333)年 新田義貞は幕府軍を攻略するため領国上野から鎌倉へむかった。
鎌倉在住が長かった義貞は、干潮を利用して稲村ヶ崎の海岸線から攻めることにした。
義貞は馬から降り兜を脱いで海上を拝み後醍醐天皇から下賜された黄金の太刀を海中に投じて龍神に祈り、引き潮に乗じて鎌倉に攻め入った。
山国育ちの新田軍兵士は、潮の干満の知識がなかったのでこの不思議に驚き、戦意を鼓舞されて怒涛のごとく鎌倉に攻め入って北条幕府を滅亡させたという。
 
↓小屋根右平枡合児島高徳櫻木に詩を記す
鎌倉時代最末期の元弘二年(1332)三月、児島高徳は隠岐へ流される途中の後醍醐天皇を奪回しようと、その跡を追ったが果せず、せめて志だけでも伝えようと、天皇の宿所に忍び込んで、庭の桜樹の幹を削って中国越王勾践 [えつおうこうせん]の故事に因んだ十字の詩を書いたという。
 
これよりお披露目曳行です!
 
 

 
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