横堤夏祭

平成二十五年七月二十一日
鶴見区横堤夏祭の風景を清治氏が撮影しました。
 
鬼熊(獅噛み) 
この地車は、江戸後期〜明治初期の制作でありますが、平成十二年吉為工務店 
彫師は松並義孝師、近藤晃師の手により新調同様に大改修されてます!!!
懸魚・隣懸魚:鷲に猿
 猿は庚申(こうしん)さんとして祀られている神獣であり、庚申さんに仮託された神の使いである猿を鷲が外敵から守っている図柄である。 
土呂幕正面  賤ヶ岳合戦?
織田信長を討った明智光秀を山崎の合戦で滅ぼした羽柴秀吉と織田家重臣の柴田勝家との合戦で、天正十一年(1583年)、近江北部の余呉湖周辺で行われ合戦は降着状態に陥り長期化の様相を呈した。
4月20日、秀吉は柴田勢が大岩山砦攻撃の連絡を大垣城で受け、直ちに北近江に急行し、21日の未明までに1万5千の本隊も移動を完了させる。柴田勢は、秀吉がまだ美濃方面にいると思ったが、予想外の秀吉の戦線復帰を知ると、柴田勢全体に動揺が走り、佐久間盛政は大岩山砦を放棄して撤退を開始する。
秀吉は、佐久間勢の動きを察知し全軍に追撃を開始し、そして21日未明、盛政軍に総攻撃を行い、余呉湖畔の激戦で盛政軍を壊滅させた。更に狐塚に陣を進めていた勝家の本隊と決戦することになったが、忠臣毛受勝助は勝家の身代りとなり秀吉の大軍を押し留め奮戦して全滅した。
勝家は、北庄城まで逃れるが、24日には天守閣が焼け落ち、柴田勝家一族は自害し秀吉は信長の跡を受け天下をとった。
地車庫内には、大改修前の大工は宮崎喜三郎 
彫師は彫清一門で製作された彫り物が飾られてます。
地車正面より向かって左平三枚板:巴御前の勇姿?
 木曽義仲の愛妾巴御前は色が白く容顔美麗でありながら、一騎当千のつわものであった。粟津合戦のさなか、最期の一戦に臨んだ義仲に女であると巴は落ちて行けと命じられる。
巴は最後の奉仕にと、そこへ現れた御田八郎師重と組、その首を馬の鞍の前輪に押し付けねじ切り戦場をあとにして木曽へ向かう。 
 
 
地車正面より向かって右平三枚板:秀吉本陣佐久間玄蕃盛政乱入す?
明智光秀の謀叛により織田信長が京の本能寺に討たれ風雲急を告げる中、秀吉は信長の弔い合戦として中国高松より兵を大返しし、光秀と一戦、山崎の合戦に勝利する。天正十一年(一五八三)四月、秀吉は反目する織田家の宿老柴田勝家と北近江賤ヶ嶽に激突す。この合戦の中、柴田勢の猛将佐久間玄蕃盛政は劣勢を盛り返すべく只一騎、鉄の棍棒を真向い振り上げて大声を上げるや秀吉本陣さして乗り込んだ。その間、僅かばかりとなったその時、秀吉の眼光鋭く光「お籠なり下郎め!」と玄蕃の頭を貫いた。鬼の玄蕃も思わず三丈ばかり後ずさり。そこへ秀吉の軍勢が帰り来たので秀吉を討ち損じた盛政は無念ながらに引き揚げるのである。 

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